【第10回】変化する愛

エト子の愛の掟12ヶ条

私達は様々な人間関係の中で愛を学び愛とは何かを実感するために生きている。それが生まれてきた意味であり唯一学ばなければならない課題ね。
恋愛という形式で誰かを好きになるのは愛を学ぶ為の数ある関係性の中のひとつの手段。
好きになること。
これはエゴという名の情欲がもたらす愛への学びの始まり。きっかけは情欲という下心。この下心をどこまで愛へと昇華できるかが課題。
情欲から愛情へ!
エゴから愛へ!
その学びの道は長く険しく困難を極める。果てなく続くエゴとの闘いに終わりは無い。だけど幸いなことに誰もが愛を持っている。その愛を発露させるか否かが幸せへの鍵。たとえしくじったとしてもそこに愛があるのだから何度でも立ち上がれる!何度でもよ!
知っときたいのは好き好きと言ってるうちはただのエゴの塊。自分好みの条件に舌舐めずりしてるだけのこと。愛を囁いてるつもりでも欲しい欲しいとヨダレを垂らしておねだりしてるに過ぎない。そしてまた相手にヤキモキしたり不安になったりふったりふられたりで落ち込んだり引きずったりとあれこれ思い悩むのは我よしの自分勝手な欲求があるから思い悩むのだ。単刀直入に獲物にありつけるかありつけないかで悩むこと。
恋愛に限らず思い悩むあれこれは欲求があるからこその醍醐味だけど人生における全ての不本意はエゴが為す仕業である。大好きな人が目の前にいるのだからロマンチックにドラマチックに妄想しがちだけど、好きという感情は正しく置き換えれば単なる欲求に過ぎずそこに愛はまだ無い。
恋愛の始まりはエゴから沸き上がる欲求であることを理解すれば実はそう大袈裟に構えるほどのものではないことに気付く。上手くいってる人に問題は無い。これは思い悩む人こそ、それに気付く必要がある。思い悩むことから脱しなければ損をするだけだからだ。
恋は盲目と言うけれど正にエゴから生まれる欲求は大切なことを見えなくさせ、時に闇へと引きずり込む。人間関係での満たされない何かは相手次第、相手ありきのどうしようもないことだと思いがちだけど、それはエゴからくる我欲の未処理が苦悩となって思い悩んでいるのだ。
一見、全ては自己責任で我慢しろと聞こえるかもしれない。けれどそれは違う。我慢もまたおごり高ぶった慢心からくる上から目線のしてやってるというエゴ。これもまた受け入れがたい人間のサガなのよね。
人に限らず生き物は何かしらの危険を察知する能力を兼ね備えている。ペットを見ればわかるように自分のことを無条件に愛してくれる人、自分の幸せを心から思ってくれる人にしか近づかない様に人もまたそれを無意識に感じ取り、自分の幸せを心から願ってくれていない人には近づかない。そこにエゴの塊がある限りどんなに好きだと言おうとも悲しいことに下心に答えてくれるのはやはり同類の人のみ。
いいのは最初だけと言うのは愛へと昇華できてない途中経過の認識でもある。情欲のままに欲しいものを食べ尽くした後には当然何も残らない。状況が変化すれば自分の感覚もそれに伴って変化するのが自然ね。以前のままではそぐわない、ズレが生じて不具合が起きる。
郷に入れば郷に従え!
人は自分の幸せを願って誰かを好きになる。
誰かを好きになったなら今度は相手の幸せを願うことに全力を尽くす。相手が欲しい人も同じ事。
全力で人の幸せを願ってみる!
自分が幸せになることではなく人の幸せを心から願うと覚悟を決める!
エゴから愛へ!
これがこれからの愛のあり方!


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エト子の「愛の掟」其の拾




江藤さんプロフィール


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